思いつくままに、キーボードを叩いてみました。

今朝の大阪はドシャ降りです。今日は、久しぶりに予定のない休日です。身体を、休めたいと思います。

私が勤めている会社は、大型小売業ですから、店の休日は元旦のみです。リストラで社員も少なくなりギリギリの体制でお店は運営されていますから、一人が連休すると一人は連続出勤となります。
私の受け持つ仕事は接客ではないのでスケジュール的には、楽にしていただいています。接客はお客様を待つという大義名分がありますが、私は、本縫いの仕事が無い時は、「仕事を探す」何でも屋です。
職人サラリーマンの私も、近頃、職人の気持ちが勝るようになってきました。

定年嘱託となれば、社会的に責任の無い立場になります。給料が半分になっても当然と思います。責任って、それほど重いものなんですよね。
体力・気力があっても、社会のシステムがそうなっていますから、立場のない人間は職場で同じ仕事をしていても、責任のある言葉を発することは出来ません。サラリーマンの宿命ですね。

ただ、私は、このようなシステムが、日本の大きな損失になっていると思います。サラリーマンは組合に守られ組合の交渉で立場を良くしてきたのですが、システムもつくられました。守られる以上システムに従うのは当然ですが、60歳過ぎても年齢で、経験・能力・気力が衰えることは無いと思います。経営者・医者・学者・芸術家・弁護士・政治家・・・・長老達が、良くも悪くも大活躍しているではないですか。(組合もなく自己責任ですが)

これは、右上がり時代のシステムだと思います。十分に余生は年金で賄える時代のシステムです。サラリーマンである以上、過失がなければ守られるのですから、ほとんどのサラリーマンは無難に仕事をこなしたいと思うのではないでしょうか。

私は、45歳までは洋服職人でした。46歳から職人サラリーマンとなり、そのギャップを、痛いほど感じました。職人と比べればサラリーマンはなんと守られているのかと思いました。外の世界を経験してきた私は、よく取引先の立場にたって上司と議論しました。みんなが良くならないと、お客様の満足は得られないと主張しました。つまり、適正価格で、それぞれに責任ある仕事をしてもらうと言うことです。でも、「良いものを安く」の常識を覆すことは出来ません。当然、上司と言えども、数字を預かる責任のある立場ですから、平社員の生意気な要求が呑める訳がありません。生意気を言えたのは、45歳まで世間に鍛えられた手に持った職があったからだと思います。

私は、定年嘱託になり縁あって、休日には、若い人達に技能を伝えるために、週一回教室に通っています。紳士服に興味を持って集まった若者達ですから目の光が違います。私も紳士服には情熱を持っていますから、毎週が楽しみです。洋服職人は70歳が平均年齢ですから、61歳になっても若いと言われる私は、悲壮感さえあるのですが、若い人に技能を伝え、育つ環境が出来ないものか願わずには居られません。

私は、若い人に技能を伝えることと同じく、自分に出来ることを一生懸命やり続けることが、魅力ある紳士服との繋がりも広がるのではないかと思います。

40数年いろんな立場で、仕事をさせていただきました。昔は「手に職を持てば生活に困らない」と言われました。今も同じだと思います。「ものづくり」には、嘘が通用しないからです。嘘で人はだませますが、「もの」は、だませません。「もの」は、だましても後から必ず自分に返ってきます。コツコツ経験を重ねるしか上達の道は無いのです。

大きな傘の下に安住しているだけでなく、自分で見て聞いて考えて「生きる道」探したいと思います。

若者の負担にならない努力をするのが、私の持ち続ける夢なのです。もう一度所得税を払えるようになりたいのが、大きな夢です。それが私にとっては後継者育成と重なるのです。

重複する箇所も多々ありますが、思いつくままに、キーボードを叩いてみました。