洋服職人


今も、年の瀬は、気忙しい・・・

12月と言っても、私の若いころの職人時代とは、ずいぶん違う。(昭和40年・50年ころ)

12月は、朝起きた時間が始業時間で、布団に横になる時間が終了時間って感じが、年の瀬の、洋服職人の仕事時間だった。12月の休みは、15日と31日の2日間だけだった。

世間では、クリスマスのジングルベルが流れ、ボーナス支給のニュースが流れても、洋服職人は、ただひたすらに、黙々と縫製仕事に精を出していた。

因果な仕事だと、思っていた。(ボーナスも無ければ、休みも少ない)(労働時間も長い)

ただ、一つだけ12月の、楽しみがあった。
正月に故郷に帰る年は、急行列車の指定席を取るために、梅田駅に徹夜で並んだ。
九州への切符を手にするために、寒い駅舎も楽しかった。
隣の見知らぬ人も、切符発売時間には、友達になっていた。

故郷での一週間は、家族・友達との再会とおふくろの味で、一年間の苦労も吹っ飛び、「また頑張るぞ」と、エネルギーを蓄えて、大阪へ帰った。

苦しくても辛くても、「私には、この仕事しか出来ないのだから・・・」と、頑張ってきた。

その頃の世間は、私鉄のストライキも多かった。バブルも始まり3K(きつい・汚い・くさい)の仕事は、労働者から敬遠された。
祝日も増え、土日も休みとなり、労働者は労働しなくなり、学生は勉強しなくなった。


洋服職人は、世間とは、違っていた。

バブルが始まると、仕事が積まれた。病気をしない限り、休みも無かった。
いくら頑張っても、手仕事では数を上げる事には、限りがあった。
きつい仕事だから、洋服職人から離れる人も沢山いた。


その頃から、数十年が過ぎた。
私は、今も洋服職人を続けている。
70歳まで、洋服職人を続けようと思っている。
定年職人が、もう一度、所得税を払える収入を得たいと思っている。


洋服職人は、世間に流されては、仕事にならない。

若者のためにも、職人魂を世間にアピールします。
「労働者は労働してこそ、学生は勉強してこそ、喜びがある事を・・・」

政治家に、期待する前に、自分に出来ることを一歩進めます。

年の瀬と言えば、年賀状・・・年賀状と言えば、お年玉くじ。
昭和24年に、民間人が、楽しみを持ってもらおうと郵政省に持ち込んだ事から始まった「お年玉くじ」だそうです。


洋服職人としては、当時の景品が面白い。

特等・高級ミシン
1等・純毛洋服地
2等・学童用グローブ
3等・学童用雨傘

お母さんが、ミシンで洋服を作り、グローブや傘をもらって子供は大喜びと、コメントにありました。



時代も変わり来年の景品は、
1等▽選べる海外旅行・国内旅行▽ノートパソコン+デジタルカメラ+インクゼットプリンタセット▽40V型相当液晶テレビ一眼レフカメラ▽快適家電セット
2等▽加湿空気清浄機▽デジタルカメラデジタルフォトフレーム▽高級食材▽折りたたみ自転車▽日帰りお食事旅行

洋服職人から、逃げたいと思ったことは、何度もありました。

世間並の人生でもありませんでしたが、40数年洋服職人を続けてきた事で、世間をリードする生き方に変えられるよう、努力したいと思います。

高級ミシンと純毛洋服地のお年玉くじは、民間人の思いつきでした。
 
もう、洋服職人からは逃げません。